Bentler

JUGEMテーマ:ものがたり

 

 ベントラーベントラーと星空に囁き続ければ、いつか宇宙船が迎えに来てくれるのだと教えてくれたのは兄だった。年齢が一回り上だったせいで、私にとっては兄というより父親に近い存在だった。仕事が忙しくほとんど家にいなかった本当の父親の代わりに、私にいろいろなことを教えてくれた。ベントラーもその一つだ。他に教わったことはほとんど忘れてしまったけれど、このベントラーについてはよく憶えている。よく一緒に並んで夜空に囁いたせいもあるけれど、このベントラーという呪文なのか問いかけなのか挨拶なのかよく解らない言葉を唱え続けることにより、実際に兄が宇宙船に迎えられ旅立ってしまったからだ。多分銀河の何処かへ。あるいは次元も超えたかもしれないし、多世界の境界も越えたのかもしれないけれど。

 もちろん兄が宇宙船に乗り込んで旅立ったことは、最初は知らなかった。兄が旅立ったのは私が十三歳のときで、つまり兄は二十五歳の時だったので、家族や親戚や友人たちは、家出したのだろうと思っていた。というのも、もともと兄はふらふらとした性格の人で、数週間ふらりと姿をくらますということが、学生時代から頻繁にあったのだ。だからこのときも、そのうちまた何事もなかったかのように帰ってくるだろうと、家族も親戚も友人たちも、そして私も思っていた。いつものように人懐っこい笑顔を浮かべて。

 けれど数ヶ月たっても数年たっても、兄は戻ってこなかった。周囲の誰もが、口にはしなかったけれどすでに兄は死んでいるのだろうと思っているようだった。私は半信半疑だった。何というかとても逞しい人だったから、何か巨大な事象に係わっていて、戻ってこないのではないだろうかと、何の根拠もなく思っていた。そしてそれが当たらず問えども遠からずだと解ったのは、兄がいなくなってから十二年後のことだった。

「久しぶりだ。実に久しぶりだ」

 兄の声で、私は目覚めた。枕元の時計を見る。午前三時十三分だった。

「元気そうで何よりだ」

 人懐っこい笑顔で笑っているような声だったけど、実際に笑っているのかは解らなかった。というのも、ベッドサイドに現れた兄の姿はチェスの駒だったのから。それは黒いナイトの駒だった。

「兄さん、だよね?」

「ああそうだ。こんな格好ですまない。いいのが思いつかなくて。すでにボディを昇華してしまっているので、かつての姿を再現できないんだ。まあ、ボディを昇華しているからこそ、ここに現れることが出来ているのだけど」

「えーと、全然解らない」

「そうだろうな。手短に言うと、俺は宇宙船に拾って貰って旅をしているんだよ。永遠に続く旅だから、ボディは邪魔だったんだ。それで、こんな感じなんだ」

「それって、ひょっとしてベントラー?」

「そうそう、ベントラー。確かおまえがインフルエンザで寝込んでいるときに、一人で夜空に囁いていたら、宇宙船がやって来て乗せて貰えることになったんだよ」

「そうなんだ」

 夢を見ているんだと思った。それは自分が唇を動かさずに会話していることに気づいたからだ。

「まあ、夢といえばそうかもしれない。しかし俺はおまえの脳が生み出した発火の幻影というわけではない。おれは確かにここにいて、おまえと対話している。ただおまえの、というか人間のやり方とはかなり違うということだ」

「ああ、そうなんだ」

 不思議と違和感なく受け入れられた。

「さて、俺がここに来たのは、おまえに頼みがあるからだ」

「頼み?」

「そうだ。この星は今未曾有の危機に瀕している。このままでは全てが崩壊してしまう瀬戸際にいるんだ。そこでおまえの力を借りたい」

「どうすれば良いの?」

「玄関の扉を開けろ」

 私はベッドから身を起こし、玄関に向かう。そして扉を開いた。目の前の足下に、折り鶴があった。赤紫の硬そうな折り鶴。紙製ではないのかもしれない。満月の光を浴びて、テカテカと光っていた。

「それを踏み潰してくれ。一気に、勢いよく」

「え?」

「それで、この星は救われる」

「それだけで良いの?」

「そうだ、それだけだ。それだけだけど、もう俺には出来ない。それは人間にしか出来ない」

 私は右足を持ち上げ、勢いよくその折り鶴を踏み潰した。鈴の音が聞こえたような気がした。鈴の音が、渦を巻いて私の足の裏に吸い込まれたような気がした。足を上げると、もう折り鶴はなかった。

「ありがとう。もうこれで大丈夫だ。お休み」

 優しい声が耳元に吐息と共に届き、私の意識は暗転する。

 翌朝、私はいつものようにベッドで目覚めた。リビングでテレビをつける。未曾有の事件は何も起こっていなかった。もちろん様々な事件は起こっていたけれど、いつもの朝だった。ただ右足の踵に、僅かに渦の余韻が残っていた。

 久しぶりに、星空にベントラーと囁いてみようかと考えてみたりした。

 

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