Pseudanthiasの誤算

JUGEMテーマ:ものがたり

 

 彼女はフリーダイバーだ。フリーライダーではない。まあ、正直に言うと若干そういうところもあるけれど。いやそうじゃなくて、フリーダイバーだ。いくつかの大会にも出場して、それなりの成績も残している。あくまでもそれなりの、だけど。普段も時間があれば海に出かけて、フリーダイビングをしている。大抵は30mから40mくらいの水深まで潜るらしい。地上でなら何階建てくらいの建物に相当するのかはよく解らないけれど、彼女にとっては余裕を持って行き来できる水深なのだそうだ。

 その日も彼女は長いフィンを装着して潜降していった。私はビーチに腰を下ろして、その様子を眺めていた。何度か潜ったり顔を出したりを細かく繰り返している。たぶん浅い潜降を繰り返しているのだろう。何度目かに私に顔を向けて、軽く手を振った。私も振り返す。その後、一瞬空を見上げてから彼女はまた潜っていった。

 今度はなかなか頭を出さない。深く潜っているようだ。私はスマホでタイムを確認する。1分、2分、まだ現れない。3分、4分、少しだけ不安になる。そのとき、私のすぐ目の前の波打ち際から彼女が顔を出した。

「長いから、ちょっと心配したよ」

 私が声をかけると、彼女は私をじっと見つめ首を傾げる。

「あなたは、雌、女、女性ね」

 何だかよく解らないことを口にしながら、彼女は水から上がりフィンを脱ぐ。そして私のところまで来ると、私の手を取って立ち上がらせる。そのまま鼻先が触れ合いそうな距離で私を見つめる。私の何もかもを吟味するみたいに。時限爆弾を解体するみたいに。

「あなたの方が大きいわ」

 とても真面目な顔で彼女が言う。

「そうね」

 私も真面目な顔で答えるしかなかった。確かに、身長も体重も足のサイズも私の方が大きかったから。

「そうなら、私が雌、女、女性ね。そしてあなたが雄、男、男性ね」

「何が?」

「さあ、男性になって私を抱き締めていいのよ」

「男性になるって?」

「だから、あなたの身体を男性にして、私と愛し合っていいのよ」

「そんなこと出来ないよ」

「え、どうして?」

「どうしてって、そういうものでしょう?」

「そういうもの?」

 彼女は眼差しをあちらこちらに動かし、しばらくしてからまたそれを私に向ける。

「ひょっとして、人は、人間は女性から男性に変化できないの?」

「出来ないよ」

「まあ、不自由なのね」

 そう言うと、彼女は口を大きく開く。するとそこから深紅の流麗な魚が飛び出した。魚は勢いよく宙を舞い、砂浜で一度跳ねてから寄せ返す波に潜って去って行った。

「やっと出て行ったくれたわ」

 海を見つめながら彼女が呟く。

「今の何?」

「プセウドアンティアス。水深40mで誘ったら、中に入られてしまったの」

「誘った? 中に入られた?」

「そういうことって、海では起こるものなのよ」

 水面を見つめたまま、彼女が言う。水面は、いつもよりも鋭く賑やかに煌めいていた。じっと見つめていると、軽い目眩がした。

 

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