清水は濁るしかない

JUGEMテーマ:ものがたり

 

 泉に着くと、カンナビさんは持ってきた柄杓で両手を清め、その手で口を清めた。泉の水はどこまでも澄んでいて、底に累々と重なり横たわる大樹たちがはっきりと見えた。彼らは腐ることなく、朽ちることもなく、悠久の時を不変の姿で過ごすのだろうと思えた。それは悲しいことのように思えた。彼らが閉じ込められているように感じたから。閉じ込められることは良くないことだと思えたから。窮屈なのは、私は嫌いだ。

「あなたも清めなさいな」

 カンナビさんが柄杓を差し出すのでそれを受け取り、私は同じように手と口を清めた。泉の水はとても冷たく、それが全球凍結の名残なのではないかと思えるほどだった。そして仄かな甘味ともっと仄かな酸味があった。生命に必要な成分が溶け込んでいるのだろうという気がしたし、それに駆逐されて生命に不要なものが全身の毛穴から排出されたような気もした。

「この泉が、特別な場所なんですか?」

 私の質問に、カンナビさんは曖昧に首を振った。

「それはイエスでありノー、といった感じかしら。ここには泉があり、泉しかない。この場所が特別なのならば、泉もまた特別でなければならない。でも泉は泉。ただ清水を蓄えているだけ。あえて言うならば、特別なのはあの大樹たちかもね」

 カンナビさんが泉の底を指差す。その指先から透明な槍が放たれ、水面を貫いて水底に突き刺さった、ような気がした。その刺激に泉が狂喜し、成分を一瞬で宝石に変えた、ような気がした。何も変わらないように見える大樹は、実はそう擬態しているだけで、既に宝石なのだ。泉に潜り、それを確かめることが出来ないのを良いことに、私を欺いているのだ。大樹が、泉が、カンナビさんが。

「この清水には、たっぷりと酸素が溶け込んでいるの。そして無数の大樹たちが見えるでしょう? あとは点火源があればいいの」

 カンナビさんが右手の中指を親指で鋭く弾く。すると中指の先端に青い炎が現れた。そして再び彼女が水面を指差す。今度は目に見える炎の矢が、水面を貫き横たわる大樹の群れへと突進する。次の瞬間、そこから真っ赤な鯱が姿を現し、猛スピードで水面へと浮上した。そしてそのままの勢いで空中に飛び出し、高速で回転するうちに巨大な炎に変じた。

「燃焼の三要素というやつね」

 カンナビさんが真面目な表情で囁く。

 若々しく荒々しく、赤々と燃え上がる炎。時折不埒に身悶えるように、鋭利な火炎片を撒き散らす。

「ああ見えて、本当は年老いているのよ。私の母親だから」

 カンナビさんはそう言いながら、とても恥ずかしそうだった。

 炎はしばらく後に急降下し、泉に没した。盛大に水しぶきが上がり、泉は赤茶色に激しく濁ってしまった。

「清水って、濁るしかないのよ」

 カンナビさんは一層恥ずかしそうに言った。

 

スポンサーサイト

コメント