泣き叫ぶ卵、微睡む卵

JUGEMテーマ:ものがたり

 

 大河を下り流れる空色の卵は、泣き叫んでいた。大きな卵で、人間よりもずっと大きなサイズ。その叫び声も大きかった。赤子が母親を求めるような鳴き声。あるいは天上界から追放された天使が、人間に貶められたことを嘆いているような声だった。声は近隣の人々の耳に届き、少なからずの人が河原に集まった。そして相談を始めた。その卵を助けるための相談を。

 大河は速すぎる濁流で、しかも流れは悪魔よりも気まぐれで複雑だった。水文学者が何度計算しても、その流れを読み解くことは困難なほどに。誰にも制御できない河だったのだ。だから通常ならば、卵を救おうという発想は浮かばないはずだった。けれどその泣き叫ぶ声が、集まった人々の胸に突き刺さったようだった。

 大河を下り流れる橙色の卵は、静かだった。微睡んでいるかのように静かで、空色の卵の直ぐ後ろを流れていたのに、誰もその存在に気づかなかった。彼以外は。

「微睡んでいるように見えないかい?」

 彼の言葉に、私は同意する。私にはその橙の卵が、微睡みの中で理想郷の夢を見ているように感じた。

「あの卵を抱きしめてみたいな。ちょっと抱きしめてくるよ」

 彼は潜水服に身を包み、大河へと足を踏み入れる。瞬く間に濁流に絡め取られ、激しく回転しながら流れの狭間に飲み込まれていく。その姿が完全に消える直前に、彼の両手が橙の卵に触れるのが見えた。そして卵と共に水面下に墜落していった。理想郷とはほど遠い濁りの奥底へ。

 その墜落は一つの墜落だっただろうか。つまり彼は卵を抱きしめられただろうか。私には確認の仕様がない。推測の仕様さえない。空想なら出来たけれど、それに意味があるとは思えない。

 空色の卵は多くの人の協力によって、河原へと引き上げられた。その間ずっと、卵は泣き叫び続けていた。河原で陽光を浴びて、それが表面の水分を乾かし尽くした頃、卵にひびが入った。一瞬でひびは卵の全体に広がり、叫び声が止む。

 人々はいろいろと空想しただろうか。そこから現れる何者かを。その姿を。そのやわらかさを。そのか弱さを。

 卵の表面が細かく崩れ、現れたのは黒い鬼だった稲妻のように折れ曲がった角と、コウモリのような翼を持つ鬼だった。人間の三倍ほどはある身体をゆっくりと隅々までいっぱいに伸ばして、黒い鬼が立ち上がる。そして鬼は大きな紅色の目を見開き、唸り声を上げた。鋸歯のようにぎざぎざした唸り声だった。集まっていた人たちが皆凍り付く。次の瞬間鬼は加速しながら何度も翻り、その場にいた人たち全員を平らげた。私以外は。

「ギゴンズギズガジバベザゲヲガガザ」

 私を見つめていやらしく笑い、鬼はそんな言葉を発した。本当にそれが言葉なのかは、定かではないけれど。そして翼を広げ、太陽に向かって飛び去った。

 そのとき濁流を切り裂き、橙色の巨大な魚が水面から飛び上がった。その頭部に彼がしがみついていた。潜水服を纏った彼が、魚の頭部を抱きしめていた。そのまま放物線を描き、魚は水面下に没する。そして二度と姿を現さなかった。もちろん彼も一緒。

 理想郷に向かって泳いでいったのかもしれない。

 

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