Order and harmony

JUGEMテーマ:ものがたり

 

 その昔、少年は蛙になってしまったことがあった。小さな青緑の蛙。両の眼球だけが鮮やかな金色をしていた。その美しい眼球に魅了され、少年はその蛙を掴んだ。野山で存分に遊び、傷だらけになった手で。その蛙の身体を覆う粘膜が、猛毒であることを知らずに。触れた瞬間に、少年は全身が硬直するのを感じ、そのまま視界が暗転した。そして気づいたときには蛙になっていた。

 世界が大きくなった。風の話し声が聞こえた。川の流れが空気を攪拌しているのが見えた。降り出した雨が、無限の色彩を纏っていて、それがとても甘いことを感じた。ただただ愉しくて、ただただ生きていた。それを主張したくて叫ぼうと喉を膨らませたとき、また視界が暗転した。

 気がつくと少年は布団に寝かされていて、傍らに祈祷のお婆がいた。「おまえは蛙に織り込んでしまったんだよ。おまえの命を。もう少しで、おまえはおまえを見失うところだったんだよ」と祈祷のお婆に言われ、少年はがっかりした。蛙の方が良かったのに、と思った。

 以来少年は、『織る子』あるいは『蛙還りの子』と呼ばれるようになった。少年はそれからどんなときにも、色々なことを、誰からも優遇されるようになった。『織る子』が出現したと言うことは、この集落に厄災が迫っているというサインだったから。そしてその厄災を払うために、『織る子』が不可欠だったから。

 翌年、集落の近くに鹿が現れた。少し灰色がかった黒色の鹿が。巨大な身体で、その頭部に身体と同じぐらい大きな角を有する鹿が。数十年に一度現れるその鹿は、『黒雲鹿』と呼ばれていた。その鹿は病をもたらす鹿だ。罹患すると必ず死ぬ病を。だからその鹿を決して集落の内に入れてはいけなかった。少年は祈祷のお婆に「さあ、おまえの働きを見せておくれ。あの鹿に織り込むんだ。そしておまえは鹿になり、集落から遠ざかっておくれ」と頼まれた。つまりそれは少年の人としての死を意味していた。しかし少年は躊躇なくそれを受け入れた。蛙になったときの感覚が、あのたまらなく世界と一体化した感覚が、あの日から少年を魅了し続けていたから。

 とはいえ、少年には一つだけ気がかりなことがあった。鹿になってしまった後、集落から遠ざからなければいけないということを、憶えていられるだろうか。その自信が少年にはなかった。祈祷のお婆に相談すると「ではこれを持って行きなさい」と梅の花のついた小枝を渡された。「これが、大事なことを忘れないように刻んでくれる。おまえがおまえを見失っても」と祈祷のお婆は言った。

 半月が、漂泊の光を放つ夜に、少年は集落の入口で鹿と対峙した。恐ろしい鹿だった。恐ろしく美しい鹿だった。少年は梅の小枝を両手で強く握り締めたまま、鹿に近づく。少年との距離が詰まると、鹿が頭を下げ角先を少年に向ける。少年は走り出し、その角に身を捧げた。貫かれる衝撃を感じた瞬間、少年は鹿になっていた。その口に梅の小枝を咥えた鹿に。

 何故自身が梅の小枝を咥えているのか、鹿は知らない。ただ、その梅の香が自身を導いていることを知っていた。導かれるままに、鹿は集落に背を向け、旅立った。

 この場合の梅は秩序であり、少年は調和だった。

 

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