墨をする

JUGEMテーマ:ものがたり

 

 墨をする。静かに丁寧に。心を澄み渡らせて、私は墨をする。部屋の隅で、炭火にあたりながら墨をする。そして私はその墨で、『済』と描く。とても上手にかけたので、それを持って銀行に出かける。

 カウンターで行員の女性にそれを差し出すと「大きな葛籠にされますか、それとも小さな葛籠にされますか」と尋ねられた。

「それぞれのサイズを教えて下さい」と私が言うと、「大きな方は一辺が二百四十メートルの正六面体で、小さな方は一辺がコンマゼロ二ミリの正八面体です」と教えられた。極端すぎるなと私は考え、「どちらもいりません」と言ってみたけど、「それは許されません、どちらかを持ち帰ってもらわないと」としばらく押し問答になる。それが面倒くさくなって「じゃあ小さい方で」と応えると、トレイを差し出された。通帳とかお金を乗っける空色のトレイを。

「ここにありますので、どうぞお取り下さい」

 にこやかに言われたけれど、葛籠なんて見えない。適当に指先で触ってみたけれど、全く解らない。ちょっとうつろな気分になってきて、摘まんだ振りをして立ち去ろうとすると、「お客様、葛籠が残っていますよ。嘘をつかれては困ります」と厳しい口調で呼び止められた。

「あのう、やっぱり大きい方に変えてもいいですか」

「はい、少々お待ち下さい」

 行員の女性はポケットから電話を取りだし、どこかに発信する。それがどこかに繋がると、「ちゅん、ちゅんちゅん、ちゅん」と可愛い声で相手と話し何度も頷く。しばらくちゅんちゅんしたあとで電話を切り、「ご自宅にお届けしましたので」とまたにこやかに言われた。

「持ち帰らなくて良かったんですか」

「一辺二百四十メートルの正六面体を? 持てるわけがないでしょう」

 あまりにも堂々と言われたので、少し恥ずかしくなり銀行をあとにした。

 

 家に戻ると巨大な葛籠が我が家を押しつぶしていた。地上付近に扉があったので開いてみると、内部には墨がぎっしりと詰まっていた。

 というわけで、私は再び墨をする。

 

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