Seaside Morning Glory

JUGEMテーマ:ものがたり

 

 川沿いの遊歩道を歩いていた。そろそろ日付が変わろうかという時刻。中天に満月が鎮座していて、その月光を浴びていると、ここが何処なのかも私が誰なのかも解らなくなってしまいそうだ。嘘だ。本当は、仕事帰りがこんな時間になる自分のことを忘れてしまいたいだけだ。月が、私を連れ去ってくれてもいいのに。古の姫のように。

 重い身体を強引に進めていると、川の上に丸テントが浮かんで見えた。月光に照らされその純白色が綺麗に輝いていた。幅が五メートルくらいの川と同じぐらいの直径で、こちら側からも向こう側からも入れるようになっているようだった。そしてこちら側の入口から、黒い袖と白手袋の手が突き出て私を手招く。その動作がとても優しく思えて、私は誘われるままにテントに入っていった。

 内部はとても広かった。その直径は五十メートル位に見える。外側に円形にたくさんの観客席が並んでいて、その内側に少し土色に汚れた白いフロアがあった。仄かに獣の匂いがした。ああ、ここはサーカスだ。と私は気づく。

 フロアの真ん中で、大きな玉の上に少女が立っている。とてもぎこちないバランスで、すぐに転んでしまう。何度も何度も玉に乗るけれど、またすぐに転んでしまう。少女は水色のレオタードを着ていて、そこから伸びる両脚は山羊のそれだった。上手く玉に乗れないのはそのせいかもしれない。

「もう一人パートナーがいれば、きっと上手く演技できると思うのですがねぇ」

 黒いタキシードに山高帽の紳士が私の傍らに立っていた。立派なカイゼル髭を摘まみ撫でる手には白手袋を着けている。するとこの人が、私を招いたのだろうか。

「ようこそ、我がサーカス団へ。本日は開演日ではありませんが、特別に練習風景をご覧頂きましょう。もちろん御代は頂きません。さあお好きな席でお寛ぎになって下さい」

 紳士は満面の笑みでそう言うと、テントの奥の方へと歩いていく。フロアでは、相変わらず山羊脚の少女が転んでいた。その上空で、空中ブランコが始まる。屈強な男と美女がひらりふわりと宙を飛び回転する。カラフルな衣装のクラウンがその丸まるとした体形に似合わぬ身軽さで一輪車を走らせ、そのまま縄跳びをしてみせる。虎が現れた。少年が鞭で虎を操り、翻らせ輪を潜らせる。目隠しした女性がナイフを投げ、マッチョな男性が口から火を噴く。その全てが華麗だった。けれど山羊脚の少女だけが、いつまでも転び続けている。

「さあ、これを召し上がれ。疲れた身体にも疲れた心にも最適のスイーツです」

 タキシードの紳士が差し出すトレイには、薄紫色の花が山盛りになっていた。

「これが、スイーツ?」

「そう、グンバイヒルガオのスイーツです。甘くて美味しいですよ。一つお試し下さいな」

 私は花を一つ取り、口に運んでみる。とても甘い匂いがして、その味も淑やかに甘かった。今までに感じたことない甘さだった。でも生まれる前によく味わっていた甘さのようにも感じた。

「美味しい」

「そうでしょうとも。さあ、存分にお召し上がり下さい」

 私はもう一つ食べた。幸せな気分になった。また一つ食べた。駆け出したい気分になった。もう一つ食べた。少し卑猥な気分になった。結局、私は全部の花を食べてしまった。

「おやおや、そんなに日常を捨ててしまいたかったのかね。自分の脚を見てご覧、すっかり山羊になっている」

 私は両脚に目を向ける。転び続ける少女と同じような脚になっていた。

「さあ立っておまえも練習に加わるんだ。今から私のことは、団長と呼ぶんだよ」

 私は少女と一緒に玉乗りの練習を始めた。

 

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