闇月美人

JUGEMテーマ:ものがたり

 

 耐えがたい寒さで、ジエイは目覚めた。硬い床に直接横たわっていたから、背中と首が凝り固まっていた。しかしそのことはさほど苦痛ではなかった。ジエイは普段から薄っぺらいせんべい布団を板間に敷いて眠っていたので、背中や首が凝り固まることには慣れていたのだ。だからいつものように肩を回してほぐしながら、堂の内部を見回した。

 障子の向こう側から滲んでくる月光で、堂の内部は十分に明るかった。今夜は満月か十六夜か、ジエイははっきりと憶えてはいなかったけれど、どちらにしても銀と橙が混ざった光は堂の内部の隅々にまで行き渡り、もののけにとってはあまり都合の良い夜とは言えないのではないかと、ジエイは考えた。

 それにしても寒さ。そう、寒さだ。ジエイは堂の一隅に広げておいた掛け軸に目を向ける。そこには黒く塗りつぶされた掛け軸が、ジエイが眠る前と同じように広げられていた。その掛け軸には、その黒の奥に美人画が描かれていた。しかしいつかの時代に何者かの手によって、黒く塗りつぶされたのだった。何故かは解らない。塗りつぶされる以前には、その掛け軸は月光美人図と呼ばれていたそうだ。しかし黒く塗りつぶされたその後には、闇月美人図と呼ばれるようになった。

 ジエイはじっと掛け軸を見つめる。そして感じ取った。その掛け軸の闇の中には、今は件の美人はいない。その闇から、美人は抜け出てこの堂に顕わになっている。だからこそのこの寒さなのだと。ジエイは紙と筆を手に取り、堂のあちらこちらに細かく視線を彷徨わせ、どんな希薄な色彩も見逃すまいと目を見張り、神経を研ぎ澄ました。そのために、彼は一人この堂に籠もったのだ。月光美人、あるいは闇月美人の絵と共に。

 その絵の噂をジエイが耳にしたのは、半年ほど前のことだった。画家としてそれなりに名の知られるようになったジエイが、初めての個展を開くことになり、その打ち合わせをなじみの画商との間で行っているときだった。どうしてそんな話が出たのかは定かではないが、その画商が不可思議な掛け軸があると話し始めたのだ。おそらく明治の後期に描かれた掛け軸であろうと思われるもので、月光に照らされ月を仰ぎ見る美女が描かれているはずなのだが、今は黒く塗りつぶされてしまっていて、その美女の相貌や佇まいは窺い知ることは出来ないのだと。

 話を聞いたその瞬間に、ジエイの胸中に電撃が走った。その美女を是非とも顕わにしたいという抑えきれない欲望が芽生えたのだった。画商にそのことを打ち明けると、画商も乗り気になり、すぐに段取りを整えてくれた。現在の所有者に話をつけ掛け軸を借り受けると、知り合いの住職に闇の中の美人を見る術はないかと相談してくれた。つまり画商は、この掛け軸には普通ではないいわれが、怪異の類いが係わっているのだろうと推察したのだ。住職はそれなら満月の前後一週間ほど、堂に籠もるが良いだろうと教授してくれたので、それに従いジエイは今寒さに耐えながら筆を握っているという次第だった。

「もし、どこにおいでですか?」

 思い切って、ジエイは声を掛けてみた。しかし応えはどこからもない。ただ風鈴の音のようなとても微かな響きが、どこからともなく聞こえてくる。聞こえてくるように感じた。ジエイはその音に耳を傾け、神経を集中し、堂の内部を探る。やがてそれが天井から聞こえてくることに気づいた。そして見上げたそこに、はたして美人を見いだした。

 ゆらゆらと、煙のように揺らぐ美人だった。微笑んでいるようにも、悲しんでいるようにも見える表情だった。きちんと結い上げられた髪、朝焼けか夕焼けか、その茜色が夜と混じり合う図柄の衣装には裾の辺りで桜の花弁が舞い踊っていた。そして何故か右手に短刀を握っていた。その刃が堂内に滲む月光を冷たく弾いていた。

 ジエイはその美女を描いた。無我夢中で描いた。背筋を走る冷たい電撃に耐えながら、懸命に描いた。それが、自身がこれまで描いたどんな絵も足下にも及ばないような、最高の作品になることを確信しながら筆を操った。何枚も何枚も、思いつくまま構図を変え、様々な角度から、様々な心持ちで描き続けた。やがて最高の一枚に到達したことを確信し、ジエイは筆を置いて床に正座した。そして深々と頭を下げた。

「ありがとうございました」

 そう言って、床に額をこすりつけた。すると次の瞬間、目の前の床にぽたぽたと何かの雫が零れてくる。顔を上げると、天井付近の美人が手にした短刀で自身の首を切り裂いていた。ぐりぐりと刃を首に埋めていき、やがてその首は身体から離れ、ジエイの眼前にごとりと落下した。落ちた首は、ジエイを見つめている。その顔は、美しかった。今夜描いたどの美人画よりも美しかった。しまった、とジエイは思った。これを描かなければ、と考えながら気を失ってしまった。

 翌朝、住職が堂の様子を見に行くと、堂の内部は一面朱に染まっていた。闇月美人図の掛け軸も、ジエイが描いた美人画も全て朱に染まっていた。住職はジエイを揺すり起こし、何があったのかを問いただしたが、ジエイは何も憶えていなかった。もちろん、自身が描いたはずの美人のその相貌も。

 

Selfish isotope

JUGEMテーマ:戯言

 

 一翼の素子が、水面のすぐ上を飛翔する。本当に水面との境界ギリギリで、ともすれば水面を自身に取り込んでしまったり、あるいは水面の方に自身の一部を滲ませてしまったりしそうなほどの接近だった。そんな接近が許されたのは、水面がこの上のない凪を纏っていたからだ。千年、いや万年、それとも億年に一度の凪が惑星を埋め尽くしていたからだ。そうでなければ、飛翔は一瞬で粉砕され、それは世界によって粉砕され、世界の見えざる拳によって粉砕され、風の懐深くに巻き取られていただろう。そうだろうか。そう、そうに違いないだろう。

 太陽は、八角形のまま水面に近づいている。そのまま海中に降臨し、この惑星の海を薙ぎ払ってしまえばいいのに。一翼の素子はそう考えながら、でもそう望んではいないことも知っている。そして決してそれが起こりえないことも。起こりえないからこそ、軽はずみに思考することが出来、起こりえないと解っていても迂闊に望むことなど出来ない。世界の理が今も尚厳重に秘匿されている以上、何を望むにしても慎重にならなければいけない。ここではないどこかを望んでも、それは手にした次の瞬間からここになるのだから。そんな思考が一瞬の千分の一ほどの間、素子の飛翔軌道を乱す。しかし誰も気づかないうちに、それは立て直される。

 誰が気づくというのか? 気づける誰がいるというのか? 答えを導き出すためには、まず誰を定義しなければいけない。しかしそれは混沌に満ちていて、そこから秩序を抽出することは不可能だろう。可か不可かで、進路を計算するとするならば。実際にはそれは計算などではなく、鼓動の締め付けられる方向なのだ。そういう意味では、世界はとても残酷だ。残忍だと言っても良いだろうか。それだと少し違うような気もする。寛容だからだ。寛容すぎるから、何もかもを傷つけ辱めてしまうのだ。傷は痛みを伴い、辱めは恍惚を伴う。一翼の素子はそれらを臆することなく吸収し、経絡を走らせて昇華して、背後に放出している。すでにある風に織り込むために。その異端の風を紛れ込ませるために。

 八角形のまま沈んだ太陽は、貴石となって水面下で煌めく。八重の八角形を八十の方位に放ちながら。それは海水に織り込まれることはなく、海水と親和することもなく、それでも水面から飛び出すこともなく、アクロバティックな演劇を繰り広げるように、海中を賑やかしている。今夜は月のない夜だから、その煌めき自体が水に閉じ込められていても、水面の上の世界を仄かに明らませるほどの越境は許されているようだった。誰に許されているというのか? 許す誰がいるというのか? その答えを導き出すためには…。いや止めておこう。堂々巡りだ。

 空に最初の星が瞬いた。それが合図であったかのように、水面からピラミッドが現れた。それが起こしたうねりは惑星中に伝播し、惑星が浸っていた億年の凪はあっけなく失われた。それは悪しきことで、そして良きことだ。つまりはどうでも良いことだ。そんなことには、誰も注目しないのだから。その誰がいてもいなくても。ピラミッドはその天辺に尖りを有していない。台形型のそれだった。平らな天辺には細かな紋様が描かれていて、それは物語だった。一翼の素子が飛翔する物語だった。一翼の素子が、飛翔の果てにピラミッドに到達する物語だった。その結末は空白だった。その空白の場所に、一翼の素子は降り立った。

 そしてあっという間に、筋骨の隆隆とした美丈夫へと変じた。一糸纏わぬその美丈夫の股間には、二振りの陰茎が生え出ていた。けれど睾丸は一つもなかった。そのせいなのか、美丈夫の唇は艶やかな朱に色づいていた。美丈夫は空を見つめる。彗星を待っていたのだ。彗星がこの惑星を掠めるそのときに、そこから怪物が放たれるのを待っていたのだった。その怪物が、この惑星から今夜迸る無数の魂を喰らうのを見物するために。そして満腹になったその怪物を、自身が喰らうために。そうすることによって、美丈夫は折り返して再び掠める彗星に纏わり付こうと目論んでいたのだった。

 物語の結末は未だ空白だ。一翼の素子の望みが成就するかは誰にも解らない。

 その誰かがどこかにいるとして。

 

ナカシトチ

JUGEMテーマ:ものがたり

 

 こんなご時世だから、全国の祭事が開催中止となっているケースが実に多い。毎年大規模に開催されるメジャーなものはもちろんのこと、何年かに一度しか開催されないいわゆる奇祭のようなものまで、開催が見送られている。こういう奇祭は一度見送られると、その後祭りそのものが失われてしまうことも少なくない。ただでさえ奇祭の類いは失われていく傾向にあるのに、それが加速されてしまうかもしれない。実に哀しいことだ。長年様々な奇祭について調査研究してきた私にとって、厳しい現実だ。そんな中、教え子の一人から今年も開催される祭りがあるという情報を得た。その子の祖母の実家がある集落の祭りなのだという。住所を聞き、私は早速出かけていった。

 それはN県とW県の県境、冬には雪で閉ざされてしまうことも珍しくないという小さな集落だった。初夏の今は、吹き抜ける風がとても心地良い眩しい緑に囲まれた場所だった。あらかじめ教え子の祖母に連絡を頼んでおいたので、集落の役場で私の訪問はスムーズに受け入れてもらえた。担当してくれた役場職員は、私より少し若い中年女性だったが、職員の中では一番若いのだと笑っていた。どこもそうだが、この集落も若者の数はひどく少ない。この場所の祭りも、遠からず失われてしまうのだろう。

「どのような祭りかはご存じですか?」

 女性職員の質問に、私は肩を竦める。

「いや、祭りの内容は全く聞いてきていないのです」

 私としては正直どんな祭りでも良かった。どんな内容の祭りでも、失われる前に蒐集したかったのだ。

「そうですか。がっかりされるかもしれませんよ。全然、立派な祭りではないですから」

「いえ、規模は重要ではありませんから。どのような祭りでも記録して、研究したいのです」

「なるほど。では見て頂きましょう」

 私と女性職員は、役場からさほど遠くない神社まで歩いて移動した。鳥居をくぐり、長い急な石段を上っていくと小さな社があった。その前に朱色の神輿が木の台座に据えられている。不思議な形の神輿で、鎧兜を連想させるような姿をしていた。その神輿の前に老人が一人立ち、神輿を両手で撫でるような仕草をしている。けれどその手は神輿には触れていない。老人は神輿の周りを一周しながら、その仕草を繰り返しそして石段を下っていった。しばらくすると、幼子を連れた母親がやって来て、同じように神輿を撫でる仕草をする。幼子も真似するように両手をぎこちなく動かしている。そして神輿を一周してやはり去って行った。老人も母子も衣装は普段着のようで、何か儀式的なことをしているようには見えなかった。

「今は祭りの準備期間でして」

 女性職員は何故がはにかむように言う。

「集落の者が手の空いたときにここに来て、あんな風に神輿に挨拶しているわけです」

「挨拶ですか?」

「そうです。あの仕草が挨拶なのだそうです。祭りのことを記した文献ではそうなっています」

「なるほど。それで、本番の祭りではどんなことをするのですか?」

「本番の祭りは、ありません」

「え?」

「この祭りは、祭りの準備をするだけなのです。神輿を出して、皆で挨拶をして、準備が終わったらまた神輿を仕舞います」

「えーと、その挨拶をするという行為が、祭りの本番ということなのでは?」

「いえいえ、挨拶は祭りの準備だと文献にはっきりと記されていますから。そしてこの祭りは準備だけの祭りだとも」

「本番はない?」

「はい、本番は永久にないと記されています」

「その理由はなにか書かれていますか?」

「ナカシトチと」

「ナカシトチ?」

「ええ、それが理由だと記されています」

「ナカシトチとは?」

「それがさっぱり分かりません。それが何なのかは記されていません。ただ、あの撫でるような挨拶のことはナカシと呼ばれていて、神輿のことはチと呼ばれていますので、ナカシとチという意味なのかもしれませんが、明確には記されてはいません。また、この社の御神体は朱色の狐なのですが、その御神体はシトチという名前なのです。そして神輿はそのご神体の内蔵なのだと記されています。さらには、その昔ナチと呼ばれる巨木が雷に裂かれて、カシトと呼ばれる大ナマズが現れて、この地を生み出したとも記されています」

 女性職員はまたはにかむように笑った。私の頭の中では、ナカシトチの多重イメージが重苦しく渦巻いていた。

「では、私も失礼して」

 そう言うと、女性職員は神輿に近づき、挨拶を始めた。

 

騎士の未帰還

JUGEMテーマ:ものがたり

 

 門はどこかにあったのだろう。知らぬ間に通過してしまったのだろう。例えばそれは巨大すぎて、認識できなかったのかもしれないし、何かありふれた現象のようなものに擬態していたのかもしれない。それともただ単に透明だったのか。透明な上に質量も持っていなかったのかもしれない。つまりそれは最早実存する門ではなく、かつて門であったものの亡霊であったのかもしれない。そういえば、どこかで冷気を通過したような気がする。あるいはあれがそうだったのだろうか。と、そんなことを考えながら騎士は歩いていた。重すぎる鎧に全身を拘束され、転がるように歩みを進めていた。

 槍のように洗練された激しい雨がようやくあがったとき、騎士の愛馬は力尽き、その呼吸は止まっていた。最後に発した嘶きは、自身の生を嘆いているようにも聞こえたが、同時に全てから解放される歓びに満ちているようにも感じた。どちらにしても、彼は愛馬に詫びるしかなかった。このような過酷な旅の道連れにしてしまったことを。自身の脚で歩いて初めて実感したこの重い鎧を、長い期間運ばせ続けたことを。次の世界では巨大な鳥となって、風さえも操って奔放に飛翔する生を謳歌して欲しいと心から願った。そう願いながら、愛馬の鮮血で喉を潤し、愛馬の肉を焼いて腹を満たした。生命の本質はプロトコルであり、それは死によってこの世界の基底現実から分離分解されてしまうことを、遺された身体には本質の破片すらも含まれていないことを、彼は承知していたから。

 周囲は紫の霧に包まれていて、狭い範囲しか窺い知ることは出来ない。その範囲においては、騎士は渓谷にいた。深く複雑な渓谷の懐に囚われていて、進んでいるのか戻っているのか、堂々巡りしているのかさえも、もう解らなくなっていた。門の内側にいるのならば仕様がない。と騎士は考え、愛馬の皮を剥ぎそれに包まって、息を殺した。門の内側では自分は異端なのだから、そもそも交わっていないのだ。交わらなければ何も始まるわけがない。そのことをようやく悟り、愛馬の皮に包まれて、じっと気配を潜めた。

 どれくらいそうしていただろう。ポーラスターが代替わりするくらいの年月だったかもしれない。一瞬にも満たない時間だったかもしれない。彼は鋭い気配を感じ、瞬時に愛馬の皮を脱ぎ捨て大段平を横一線に薙ぎ払った。しかしその剣先には何の手応えもない。彼が目にしたのは揺らぎだった。分厚い角を頭に冠する人馬が、彼の剣の直線運動によって奇妙に波打たれている姿だった。その人馬が頷き、彼を誘うように歩き出す。すぐに振り返りまた頷き手招きする。彼は揺れながら進む人馬を追いかけた。程なく渓谷はひらけ、宮殿が現れる。白亜の石作の宮殿だった。飾り気はないが、聡明な宮殿だった。宮殿の正面には噴水があって、そこに黄金が湧き出ていた。彼はそれを両手で掬い口にする。美味かった。今まで口にしたどんな酒よりも美味かった。彼は夢中でその黄金を飲み続けた。何もかもを忘れ、無我夢中で飲み続けた。

 そして騎士はいつしか黄金に変じていた。宮殿には、そうやって黄金に変じたたくさんの騎士が飾られていた。恐ろしく美しい光景だった。

 そういう光景を、騎士はクリスタルの中に見取っていた。手にした柱状のクリスタル、その内側にそんな光景が閉じ込められていたのだ。自身や、これまで帰還することのなかった数々の騎士たち、その全てが黄金に変じた光景を。

「それでも行きますか?」

 魔導師に尋ねられ、騎士は笑った。

「もちろん行くよ。それが俺の使命だから」

 魔導師にクリスタルを返し、騎士は愛馬にまたがる。

「それに、最上の酒よりも美味い黄金を味わってみたいからな」

「帰還できないのにですか?」

「帰還が全てではないさ。俺の旅は、いや旅というものは、暦を巡らせ、その上で斬り裂くことにある」

 その言葉が終わる前に騎士の大段平が翻っていて、魔導師の首をはねていた。と思った次の瞬間には、魔導師の首は山羊のそれとすり替えられている。

「ふん、尻尾を巻いたか」

「暦を巡らせるって、その上で斬り裂くって、どういうことだ?」

 愛馬が騎士に尋ねてきた。

「意味なんてない。暗示の外に跳躍するための暗示だよ」

 愛馬は納得するように低く嘶き、軽やかな足取りで歩き出した。

 

The flower that hugging the universe

JUGEMテーマ:ものがたり

 

 海と空の境界線の内側に、その森は広がっている。折り畳まれたまま広がっている。それは深い藍色で、深すぎるために抑鬱を纏い、痛みを伴う翠の色彩を溢れさせていたりする。それは痛みで、けれど恍惚でもある。どのような世界でも、痛みと恍惚はいつも表裏一体なものだ。綺麗と汚いが表裏一体であるのと同じように。そういう所に、得てして翼が発生したりするものだ。ただ翼だけが。風を攪拌し、境界線を閉じたまま維持するために。それは残酷な風だ。だから常に攪拌し続けなければ、大量絶滅が巻き起こったりするのだ。大量絶滅それ自体は仕方がないとしても、そのあとの揺り戻しで大爆発が起こることが厄介なのだ。それが起こることによって、無秩序な秩序ばかりが増殖してしまうから。そして殺戮が始まり、しっちゃかめっちゃかになってしまうから。

 森の奥深く、光も風も僅かにしか届かないところで、花が咲いていた。トリハルライトの鉱石にそっくりな虹瑠璃色をした花弁を精一杯に開いて。花は踊るように揺れている。風のせいではない。風は極々微風だったし、たとえ強い風が吹き抜けていたとしても、その花弁は冷酷に風を切り裂き、それに揺り動かされることなどなかったから。ではその花は何に揺すられていたのか。それは内包する宇宙に。八枚ある花弁のそれぞれ、その虹瑠璃色に織り込まれた宇宙が、正確にはかつて宇宙であって、この後那由他の時の果てにまた宇宙に変ずる素子によって。それが花弁の内宇宙で胎動して、花を揺り動かしていたのだ。微睡みの中で夢を見て、その夢の翻りによって踊らされているかのように。止めどなく可憐に。見ようによっては滑稽に。

 宇宙はこういった所から生まれ、その寿命が尽きたときにこういった所に還るのだとあなたが思ってしまったのだとしたら、それは違う。騙されてはいけない。花弁が宇宙の素子を内包しているのは、この花が気まぐれに、あるいは宿命だと信じて、それとも何の考えもなしに、宇宙を喰らっているからだ。宇宙に散乱している二種のダークを吸収して、花は虹瑠璃色を濃厚に保ち、輝きを維持しているのだろう。だから花は自身の世界にだけに興味を向け、その他の世界には無関心だ。もちろん宇宙を喰らわなければ満足できないから、宇宙が必要不可欠だ。しかし花が欲している宇宙とは、星々のさんざめきではない。ダイナミックな惑星たちの躍動でもない。そういった些末な事象ではなく、もっと圧倒的な脈動だろう。そういうものと、花は並びあって歩んでいるのだ。

 はたして、宇宙があるからそれを喰らい花は満足しているのか。

 それとも、花を満足させるために宇宙が存在しているのか。

 それがどちらであったとしても、花が宇宙を喰らうことには違いなく、虹瑠璃色の花弁に宇宙の素子が織り込まれることにも違いはなく、それがいずれ新奇な宇宙に変ずるであろうことも間違いない。

 花が生み出した宇宙と、そうではない宇宙に違いはあるだろうか。それはもちろんあるだろう。花が生み出した宇宙には、その基底部に虹瑠璃色があり、そうではない宇宙にはそれがない。しかしそれは宇宙の真相であり、それに触れることが出来る者などいないだろう。その宇宙、それぞれの宇宙に所属している限り、触れようとすればただ騙されるだけだから。

 あなたがその虹瑠璃色を感じることが出来るのならば、それは実に幸いなことだ。その理由はここでは述べない。記述した瞬間にそれは虚になり、あなたを騙すことになるから。

 

半夏雨の夢想

JUGEMテーマ:戯言

 

 もしも私が世界であったとしたら、この雨の全てを受け入れなければと思うだろうか。落雷による痛みも、その痛みに意味があるのだと考えて、その意味を探求しようとするだろうか。意味が解らなければ、解るまで落雷に身をさらして際限なく痛みを取り込もうとするだろうか。

 風に舞うことなく、空気を切り裂き地面に突き刺さる雨は、末期の雨なのだろう。世界は終わりに向かって突き進んでいるのかもしれない。もしも私が世界なのだとしたら、私は終わりに向かって彷徨っているのだろうか。大粒の雨の衝撃を感じながら、その透明な弾丸に思考を揺すられながら、遠くに終末を捉えることが出来るかしら。

 綺麗であればいいのに。沈没する、綺麗な終末であればいいのに。そしてもしも私が世界ならば、その綺麗な終末に織り込まれながら、眠るように、暗黒の眠りに沈むように、夢のない眠りに落ち込みながら、その奥深くで溺死するのだろう。肺に水が流れ込むその瞬間に、極彩色の森林を私は見るだろうか。微細に砕かれる私の心が、恐怖を咀嚼するためにそんな風景を私の後頭葉に焼き付けたりするだろうか。極彩色の森林の上空を横切る、エメラルドグリーンに輝く巨大な翼竜が、誇らしげに上げる咆哮を耳にするだろうか。もしも私が世界そのものなら、その咆哮に癒やされながら溺死するのだろう。

 もちろん私は世界ではない。小さな部屋の内で、エアコンディショナーの稼働音に耳を傾けながら、ただ横たわっているボディだ。泥のボディだ。泥のボディだから、こんな日は外に出ることが出来ない。外に出かければ、この雨にたちまち形を崩され、些末な意味のない事象に貶められてしまうのだ。それがよく解っているから、意味のない時間を受け流して、私は揺する。自分自身で私の心を揺する。心というものの存在を、本当のところは信じていないくせに。信じていないのに、どこかで信じたいと思っていたりもしているくせに。

 ああ曲者だ。曲率だらけだ。小さくて細かな曲率だらけだ。そのいちいちを計算などしていたら、日が暮れてしまうし、この時間に目的が生まれてしまう。それでは駄目なの。目的を構築しないために、翼竜の咆哮に耳を傾けたりしているのだから。いっそのこと、私が翼竜になってしまおうか。時間を遡り、まだ世界が若く荒々しかった頃の青く銀白の空を飛翔し、飛翔し、飛翔してみようか。でもそれだと、私は世界ではなくなってしまう。それは哀しいな。世界だから、溺死できるのだから。

 もしも私が世界であって、今溺死の際にいるのだとして、極彩色の森林を強く回顧していて、誇り高き翼竜の咆哮に気持ちを奪われていて、そして時間が止まる瞬間を、初めからなかったかのように振る舞う瞬間を待っているのだとしたら、私という世界は世界であることに矛盾した私になってしまうだろう。私自身はそれでも一向に構わないけれど、私と世界がイコールならば、世界がそれを是とすることはないだろう。

 もしも私が世界であるのだとしたら、この雨は私を受け入れてくれるだろうか。

 私は私の身体を持て余している。

 私は私の心を踏み潰している。

 

新しい様式よりもJuvenile

JUGEMテーマ:ショート・ショート

 

「新しい様式って、ちょっと可笑しな響きじゃない?」

 彼女が囁く。囁き声だったけれど、思ったよりも大きく響いたように感じた。空間が広すぎたせいだろうか。広いフロアには、たくさんのテーブルが並べられている。たぶん無限に挑戦できるくらいの勢いを持つ数くらい。

「可笑しな響き? どの辺りが?」

 僕が聞き返すと、彼女はどこかはにかむように微笑む。

「うーん、新しいと様式をくっつけてるところかな。この二つをくっつける必要はないと思うんだ、私は」

「どうだろう、そうかな」

 テーブルの数に対して、このフロアにいる人間の数が少なすぎて、寒かった。つまりエアコンディショナーの稼働が、人間の密度に見合っていないような気がした。でもこれも新しい様式の一つなのだろうか。

「新しいと様式をくっつけてしまうと、囚われてしまうじゃない?」

「何に?」

「変化に。無理矢理の変化に。世界は回転しているけれど、私たちはそれを実感する必要はないじゃない」

「何? 自転のこと?」

「そう、自転のこと。地面は確実に回転しているけど、そんなこと私たちの暮らしに関係ないじゃない」

「でも、日が昇り、日が暮れて、一日が進んでいく。それは僕らの暮らしに関係してるけど」

「あれ、日の出や日没や一日という単位があなたには必要なの? ちょっと意外」

「そうかな。僕はそういうのをけっこう意識してるけど」

「まあいいわ。じゃあそれ以外は関係ないじゃない」

「まあ、それ以外がなんなのか気になるけど、今は関係ないとしよう」

「うん、そうして。で、私思うの。新しい様式とやらは、私たちに関係のないはずの回転を強いていると」

「どんな風に?」

「具体的に言うときりがないけれど、やることがもうたくさん増えたじゃない?」

「今日みたいにショッピングしたり、外食したりするとき?」

「そう。しかもその多くがとてもちぐはぐだわ、私的には」

「その部分は同意するよ。僕的にもいろいろとちぐはぐだと感じたから」

「でしょう。で、私は提案したいの。私たちが考えるのは新しい様式ではなくて、ジュヴナイルだけでいいのじゃないかしら」

「ジュヴナイル?」

「私たちの間にあるジュヴナイルを意識するだけで」

「僕たちの間には少年がいるの?」

「少年、あるいは少年性が」

「それを介して僕たちは暮らしていくと?」

「そうよ」

 僕は周囲を見回す。空いたテーブルには全て、透明な少年たちが座っている。無音ではしゃいでいる。フードスタンドに並ぶ人と人の間にも透明な少年がいる。飛び跳ねながら、時々空中で一回転している。

「いいね」

 僕は頷く。

「でしょう?」

 彼女も頷く。

「僕たちの間にもジュブナイルがいるのかな?」

「試してみる?」

 彼女はテーブルを越えて顔を突き出し、僕の頬を素早く舐めた。

「私はジュブナイルを超えられるよ」

 彼女はニンマリと笑った。